2013年3月24日日曜日

福島救出作戦の永続的な遺産:パート4 余波と生きる

A Lasting Legacy of the Fukushima Rescue Mission:
Part 2 Living with the Aftermath
by Roger Witherspoon



ロジャー・ウィザースプーン氏の2013年3月15日の記事、”A Lasting Legacy of the Fukushima Rescue Mission: Part 4 Living with the Aftermath,“「福島救出作戦の永続的な遺産:パート4 余波と生きる」から、被ばくした水兵達の証言部分のみ和訳しました。

元の英文記事




大柄の黒人の水兵は、裸でデッキの下のロープで囲まれたエリアのど真ん中にいて、あまり嬉しそうではなかった。

「彼は、『ブーツもじゃないだろうな?妻が買ってくれたばかりなんだ。』と言い続けていた。でもそのブーツも結局脱がされ、裸で立っていた。そして、ゴシゴシと体を洗わされた。」と空母ロナルド・レーガンの航海科士官モウリス・イニスは回想した。

この水兵は、船体を洗う時に使う、液状の紙やすりのようなザラザラした洗剤を使わされた。そして、皆が見ている目の前で体中をゴシゴシと洗わなければいけなかった。洗面台の所まで歩いて行ってすすぎ、戻って来てガイガーカウンターを体中に当てられた。ガイガーカウンターが鳴らなくなるまで、繰り返さなければいけなかった。

「そして、次は自分の番だった。」
     
増大する恐怖

クォーターマスターのイニスにとって、除染を待つ事は予想だにできぬ出来事だった。クォーターマスターの主な業務責任は2つある。船の航海と、帆柱に付けてある、艦隊の他の船に旗艦が何をしているかを知らせるための、シグナルの旗の操作だった。イニスは、帆柱の一番上で2週間なびいていた星条旗を降ろし、艦長の部屋へ持って来るように命令を受けた。

「星条旗を降ろしました。」とイニスは言った。「そして、敬意を込めて丁寧にたたみ、右腕と胴体の右側の間に旗を抱え、中に持って来て片付けました。何も特別な事だと思いませんでした。」

夕食後、放射能探知機の傍を通った時、「アラームが全部鳴り出しました。」とイニスは回想した。「そして、何にも誰にも触らない様にと怒鳴られ、除染エリアに直行するように言われました。」

ロープによって分けられた「除染」エリアには、チェックされるのを待つ男女の水兵の列ができていた。しかし、イニスは待たなくて良く、列の先頭に行かされた。そこでは、ロナルド・レーガンの上級士官とシニア軍医官が注意深く見守る中、ある光景が繰り広げられていた。部屋の真ん中の裸の水兵は体を覆うタオルをもらって去って行った。次にイニスが呼ばれた。
「私達は、放射能はないと言われてました。」とイニスは言った。「艦内に放射能チェクポイントが設置され始めた時、彼らは理由を言ってませんでした。ブーツの検査は大丈夫でした。手をチェックした時、測定器が狂ったように鳴りました。」

「検査をしてる人は怖がって、『彼から離れろ!』と言いました。次に、腕にビニール袋をかぶせられて、彼らは皆に私から遠ざかるように言いました。伝染病のペストを持ってるかのように扱われて、パニックを起こしそうになりました。研磨用の塗料剥離剤で胴体の右側と両手をゴシゴシと洗わなければいけませんでした。皮膚の表面が何層か剥けました。」

イニスは、自分の放射能測定レベルが何だったのか、その時もその後も教えてもらえなかった。艦内の乗組員の中では最大値だとしか教えてもらえなかった。しかし、その時イニスは、放射能の事自体よりも、未知の事に対する恐怖の方に気を取られていた。

士官達はイニスを見て、怒鳴って命令していた。男女の乗組員の仲間達は、除染ステーションの外側から自分たちの順番を待ち、黙ってイニスを見ていた。

「かなり恥ずかしかったです。」とイニスは言った。「半分裸で怒鳴られながら、皆の目の前でゴシゴシと体を洗い、何が起こってるのか教えてもらえずに怖い気持ちでした。状況から察するに、自分は本当のトラブルに陥ってるのだと思いました。それに乗組員達も怖がっていました。誰も放射能の専門家ではありませんでした。死ぬのだろうか?癌になるのだろうか?どこかに追いやられるのだろうか?と自問自答しました。皮膚が水疱状態になったりするのだろうか、と思いました。何も分かっていませんでした。」


海軍は、放射性物質の粒子は確かに石鹸と水で洗い流せると言われていた。それは部分的には本当だった。α粒子は滑らかな表面から洗い流す事ができた。β粒子も体内に入り込む経路となるような傷が皮膚にない限り、洗い流す事ができた。海軍が使っていた研磨用の塗料剥離剤は、皮膚の上層部を剥離した。その上、空母のフライトデッキは、滑らかなプラスチックやガラスでできているのではない。ただゴシゴシ洗うだけでは、多孔性の表面から粒子を取り除く事はできない。

ロナルド・レーガンの乗組員達は、海上では放射能の心配をする必要はないと言われており、航海科士官として、イニスは放射能は避ける事ができるプルームだと信じさせられていた。しかし、放射能雲はいたるところにあり、必ずしも避ける事ができないのが明らかだった。

クォーターマイル(400m)の長さのデッキ上では、また別の警告があった。

「デジタル腕時計を持っていました。」とクォーターマスターのジェイミー・プリムは言った。「それが突然止まりました。誰かが、放射能のせいだと言いました。その時デッキには5−6人が居たのですが、皆、自分の腕時計を見たら、デジタル腕時計は全部止まっていました。すごく高価な腕時計をしてる人がいましたが、それも止まっていました。」

「最初は笑っていたのですが、そのうちただお互いを見るだけでした。笑えるほどおかしいと思えなくなったからです。」

そしてデッキの下で働いていた乗組員はもっと少ない情報しか持っていなかった。ジェット機の整備士は、航空機のパーツのほとんどを、放射能測定を受けるために下に持って降りていた、とジェニファー・ミックは説明した。ハンガーの巨大なエレベーターへのアクセスは限定されていた。

「ハッチに見張り番が配置されました。」とミックは回想した。「航空隊のメンバーが折り畳み椅子に座り、誰もキャットウォークを通ってデッキに出ないように見張っていました。船の他の部分の汚染を減らすだめに、出入りは船の前の部分のみに限定されていました。」

     
ジェニファー・ミック

「見張り番は一日中そこに座って、間違った方向に向かった人達に怒鳴っていました」ミックはフライトデッキ上のジェット機が放射能汚染された環境下にあったのを知っていた。「フライトデッキから降りて来る度に、誰かがブーツをゴシゴシ洗って、最終的には汚染されたものの山に加え、除去しなければいけませんでした。デッキに上がる時は、普通のブーツの上からまたブーツを履き、それを捨てる事になりました。そのうち、化学用・生物用・放射能スーツを着なければいけませんでした。」

「マスクと酸素ボンベも支給されましたが、それは実際には使いませんでした。」

これらの予防策がどれほど効果的だったかは不明である。空母というのは複雑な産業街であり、常にどこかで大なり小なり部品が壊れているものである。普通の消耗による損傷もあれば、事故からの損傷もある。

トモダチ作戦の間、ドアの下にボロ布を押し込んで大気中の放射能の拡散を防ぐのは、ドア自体が壊れていたり、ドアの周りが壊れていたり、場所によっては水密のドアが修理のために外されていたと言う事からすると、機密性は保たれていなかった。すなわち、図面上では空母ロナルド・レーガンには密閉された部屋が並んでいたが、実際にはどちらかと言うと、空気が自由に循環する、浮いているカタコームだった。

      
付帯的損傷
   
「健康状態は、去年の初めに下り坂に向かいました。」と、空母レーガンでのF−18の構造整備士でハズマット・コーディネーターであるミックは言った。(2012年)3月30日に、カリフォルニアで命令変更の際に整列している時に、初めて意識を失いました。

脱水状態だろうと言われ、医務官のエリアで座り、水を1本飲みました。そして4月29日にまた気を失いました。この時は救急室に運ばれ、頭痛がすると訴えました。

(気を失った時に)『頭を打ったんじゃないか』と言われ、CTスキャンをされ、『脳に腫瘍が見つかった』と言われました。それ以来二回手術を受け、海軍を辞めました。」

詳細を説明すると、ミックの前頭葉で医師が見つけたのは、2期乏突起星(ぼうとっきせい)細胞腫と言う癌だった。脳内で筋の通った話し方を司る部分にできる致命的で不治の癌である。腫瘍を取り除くと空洞ができ、その空洞が時にはつぶれてしまって、付帯的損傷を起こす事がある。

ミックの2度目の手術の後、「今は癌は活発でない」と知らされた。「まだ残ってる部分は、何もせずにそこにあるだけです。そこにあるのは分かっていますが、何もしていないし痛みもないので、そんなに悪くありません。」

「2ヶ月ごとに病院に行ってチェックを受けています。ストレスは多いけれど、何とか生きて生活できています。」
   
  ジェニファー・ミック

生きると言う事に関しては、ミックは最初の出発点である、ウィスコンシン州ソープの両親の農場に戻って、癌の次の再発を待っている。現時点では、医者を受診する予約がたくさんあるので、週5日仕事をするとか言う事はとても難しいです。車を持っていないので、両親に色々な所へ車で連れて行ってもらわなくてはいけません。」

ミックは、予測できない状態と共存する事と折り合いをつけている。「私の将来の計画はそんなに大きく変わっていません。」と言った。「まだ大学に行き、良い仕事を見つけ、人生を行きて行くつもりです。癌に関しては、手のような体の他の部分みたいに、私の一部です。受け入れて共存するようになりました。」

「この瞬間を生きて、自分らしく生きて、できるだけ長く人生を楽しむと言うことなのです。」

ミックは、原子炉の状態と真の放射能放出について米国政府を誤って導いたとして、東電に訴訟を起こしているグループの1人である。ミックは、放射能が自分の癌を引き起こした原因だと言う。

「私が訴訟に加わったのは、他の人にこういう事が起こらない様に、誰かが責任を取るためです。事実を隠すと言う事は、長い目で見ると誰かの人生を台無しにするし、それが他の人に起こるのを見たくないのです。」とミックは説明した。


「海軍に関しては、どこかに改善の余地があったわけではないと思います。海軍は(放射能に対しては)、訓練を受けていません。その時持っていた情報で、最善を尽くしたを思います。軍の仲間達や任務で行った場所には素晴らしい思い出があります。」

ある意味、ミックがまだ海軍に所属している間に気を失って癌の診断を受けたのは幸運だったと言える。今の所、ミックの医療費はカバーされているが、それは変わるかもしれない。

「医師達は、これが任務に由来するのか決めていません。」とミックは言った。

国防省が放射能は軍人達に何の健康被害も起こさなかったと前もって決め、トモダチ医療登録を廃止したため、ミックは、またさらに1人の、不治の癌と健康保険なしの海軍退役軍人になるかもしれない。

急速な老化
         マイケル・シーボーンは、海軍の航空機整備士としての17年間の間に、多くの部品が消耗するのを見て来た。厚木基地で整備をしたヘリコプターの多くは良く使われていたため、安全と最大の業績を確実にするために、部品が交換された。しかしトモダチ作戦の間には、ヘリコプターの部品、特にラジエーターと送風管は、エンジンに大量の放射性物質が吸い込まれたため、ほぼフライトごとに交換された。「

ラジエーターを再使用する事はできませんでした。」とシーボーンは言った。「交換しなければいけませんでした。水と洗剤を入れた樽に入れ、その樽を立入禁止テープのようなバリアの後ろに置きました。そして毎日放射能が樽から漏れていないかを測定しました。」

「樽からは放射能が出ており、放射性物質の自然崩壊には何年も何年もかかります。タイベックス・スーツを脱いだ後、それも切り刻んで樽の中に入れました。シールがついていたり汚れていたりしたものは、放射性物質が付着するから、全て樽に入れなければいけませんでした。樽に何かを入れれば入れるほど、放射能数値が上がりました。まるで繁殖してるかのようでした。」

それは、2011年春の、嵐のような80日間であり、永遠に終わった期間だとシーボーンは思っていたが、それは間違いだった。シーボーンの8歳の息子のカイが2011年5月に奇妙な病気になったのである。

「カイは吐くのが止まらなくて3週間学校を休みました。」とシーボーンは言った。「学校の規則では、吐いたら早退しなければいけませんでしたが、カイは1日に10−15回吐いていました。気分が悪かったのではなく、ただ吐くのが止まらなかったのです。」

「最終的にストレスのせいだと言われました。今でも同じような事が起こる時がありますが、何故これが起こるのかは分かっていません。」

だが、シーボーンの体調は良好だった。去年までは。

「2012年3月に、海軍の軍医が原因を説明できないような症状がありました。」とシーボーンは言った。「体の右側だけ、普通の強さの40−50%しかありません。MRIを2度、そしてレントゲンやエコー検査も受けましたが、原因が分かりません。」

「腕、胸と肩が痛くて、体の左側が右に比べてもっと大きくなってきています。右利きだから右をもっと良く使うので、これは変です。」

シーボーンもカイも、遺伝的カウンセリングやモニタリングを受けなかった。17年間の兵役の後は、海軍はシーボーンだけに健康保険を5年間支給する。「そしてその後は、何も健康保険をもらえません。退役後は、軍人はしばらくカバーされますが、家族には保険が支給されません。」

その5年が終わったら?「それは素晴らしい質問です。」と、体の右側だけが若年性老化現象を起こしているかのように弱くなり続けているシーボーンは言った。

「7万人の兵士とその家族のためにトモダチ登録はそのためにあり、10年か15年経ってから健康被害が出たら、兵役に関連しているから医療を受ける事ができるはずでした。しかし国防省がトモダチ登録を廃止したので私達がどうなるのか分かりません。」

シーボーンが東電訴訟に加わったのは、東電が、自分たちが起こしたダメージに対して責任を持ち、将来的な医療費を払うのを確実にするためだった。

「海軍に対して放射能の事で怒ってはいません。放射能と対処した事がなかったから、何が起こっていたのか分からなかったのです。海軍は私達に嘘をつきませんでした。海軍は最善を尽くしました。皆、盲目的に計器飛行をしていたのです。」

官僚社会の航海

原子力空母ロナルド・レーガンと第7艦隊がトモダチ作戦の終了後に日本から離れるにつれ、航海科士官プリムとイニスは安堵を感じた。やっと終わって、放射能調査チームから、もう安全だと言われたからだ。

「内部被ばくの検査などは受けませんでした。」とプリムは言った。「皮膚の表面を測定器で測定しただけでした。血液検査や他の検査は受けませんでした。」

「80日間あそこにいました。」とイニスは言った。「最後の方で、下あごに小さな腫れ物ができているのに気づきました。診てもらおうと思ったら、その頃には放射能専門家は船から去っていました。」

「その後、胃潰瘍になり始め、腫れ物がまた2つできました。ひとつは太ももの下の方、もうひとつは両目の間でした。」

空母レーガンは、1年間の除染とオーバーホールのために、ピュジェット・サウンドに向かった。イニスは4年間の入隊だったので、5年間の入隊だったプリムが兵役を終えるのを生産的に待つ間に、ワシントン州ブレマートンのオリンピック大学に入学した。

オリンピック大学でのイニスとプリム

「海軍で良く言う事があります。」とイニスは回想した。「何かというと、兵役終了後、髪の毛を伸ばして長いヒゲを生やすのだ、と言うのです。海軍にいる間は、ヒゲや髪を伸ばしてはいけないからです。」

「髪を伸ばして、あご髭も生えました。そして、毛が抜け始めました。今では髪の毛をクシでとかす事を滅多にしません。もしもクシでとかしたら、たくさん抜けてしまうからです。そして、何かを書いている時、右手が震えます。」

身長185センチで運動選手のイニスは、オリンピック大学フットボールチームのMVPになり、400mダッシュは、2012年オリンピック選考タイムの2秒以内だった。今は、1日を過ごすエネルギーを見つけるのも難しい。

「私はまだ25歳です。」とイニスは言った。「なのに、体がバラバラになってきています。こんなに痛みがあっていいはずはありません。体のケアはとても良くしていたのに、今は体内のスイッチが消されているようです。老人のように感じます。こんな状態はイヤです。」

「放射能が何かをしたかもしれないかは、わかりません。でも、これが自分のせいでないのはわかります。」

イニスは海軍が彼の医療記録を「失くした」と知らされた。だから、今の健康被害の症状を、空母ロナルド・レーガンでの兵役と結びつける事が不可能だということである。故に医療が必要でもカバーされない。

プリムにとっては、問題は最初はただ厄介な事にすぎないように思えた。「6ヶ月間、生理が完全に止まりました。」とプリムは言った。

ジェイミー・プリム

「何故生理が止まったのか分からないから、医者は妊娠検査を何度も何度もしました。でも妊娠していませんでした。そして6ヶ月後に生理が始まった時、あまりの出血に気を失っていたので救急室へ行きました。」

それは医学的な説明が明確でないけど再発する現象だとプリムは言った。普通の生理周期が突然迅速でコントロール不能な出血に変容し、病院で医療処置を受けなければいけなかった。2012年3月に喘息になって初めて気管支炎になったが、この後、12月に海軍を辞めるまでに、5回、気管支炎になった。

海軍は、婦人科系疾患を兵役に関連づけない。放射性物質の吸入がプリムの呼吸器系疾患に影響を与えたかもしれないという可能性は、国防省がトモダチ作戦の参加による健康被害はなかったと決めた時に、除外された。そのため、プリムも健康保険がない。

元航海科士官達は、フロリダ州ジャクソンビルに引っ越し、セント・ジョンズ・リバー州立大学に通っており、ノース・フロリダ大学への転校を希望している。2人共、海軍時代には良い思い出を持っている。

「自分の一部分では、海軍がわざと乗組員を傷つけるようなことをしないだろうと信じたいです。」とプリムは言った。「あの当時に出て来た数少ないニュースを覚えていますが、日本政府は福島第一原発からの危険はなく、放射能は漏れておらず、全てがコントロールされていると言っていました。」

「日本政府は嘘をついていました。私は日本政府を責めます。」

しかし、イニスは引き裂かれている。「日本政府は私達の政府に嘘をつきました。そして、自分の中では海軍はそんな事を乗組員にしないだろう、そんな危険な状況にわざと私達をおかないだろう、と思いたい気持ちがあります。」

「でも、まさにそれをしたのだ、と思う気持ちもあります。」


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