バンダジェフスキー氏の論文・著書の翻訳に関わったのは、成り行きからだった。バンダジェフスキー氏を日本に招聘したいと言う木下黄太氏から、突然、バンダジェフスキー氏に連絡を取ってくれと頼まれたのだ。2012年1月中旬を過ぎた頃だった。
私は当時、木下氏のブログの一読者だった。放射能被ばくに関する情報は、その時は、木下氏のブログが一番多く思えた。私が医師として持っていた放射能に対す る知識は、急性被ばく症や原爆の被ばく者についての一般的な範囲内に過ぎず、「低線量被ばく」や「内部被ばく」と言う概念は新しいものだった。内部被ばく を証明する研究をし、投獄されて国外追放の身にあったバンダジェフスキー氏が日本で講演を行なうというのは、素晴らしい考えに思えた。
バンダジェフスキー氏にメールで打診すると快く引き受けて下さり、その時点から両氏の連絡係のような役割になった。バンダジェフスキー氏の英文パワーポイン ト資料をインターネットで見つけ、それを和訳すれば講演でも使えるのではないかと思い、そこから翻訳係の役割が始まった。
招聘の承諾を得てから2ヶ月での講演という、異例のスピードで事は進んだ。医師・専門家向けセミナーで配布する英語論文が何かないかと木下氏に打診された が、バンダジェフスキー氏の論文は、その当時の背景の影響でほとんど医学雑誌に掲載されることはなく、唯一掲載された論文は既に出回っていた。バンダジェ フスキー氏に問い合わせると、自分の重要な論文である「放射性セシウムと心臓」の「第4章」に病理スライドが多いから、それはどうだろうかと言う話になっ た。既に英訳されていたのだが、実際に目を通すと意味不明の文章や用語が多数あった。バンダジェフスキー氏に質問しながら、改訂版英訳を作成することにし た。
パワーポイント資料も、実際に読み込むと英語が意味不明の部分があり、和訳が難しかったので、先に改訂版英訳を作成した。
医学翻訳は難しい。これはどんな分野の翻訳でも言えると思うが、ただ英語を日本語に直訳しても、何を意味しているのかさっぱり分からない事がある。私はプロ の翻訳家ではない。ただ、医学知識があり、英語が一通りできるだけである。基本的に自分が理解できない事は翻訳するのが大変に苦しい。意味が通っているか どうか分からないからである。しかし医師であるので、医学翻訳を読んで、大抵の事が本筋から逸れているかどうかの判断はつく。そのような点から、バンダ ジェフスキー氏の論文の英訳は、扱いにくかった。
病理生理学などに関する、自分が普段接する事のないような内容もあり、難しい部分もあった。さらに、所々、旧式の言い回しがあったり、見た事のない用語のた め検索してみると使っているのはロシア圏の研究者ばかりだったり、と言う事が幾度もあった。(ちなみに、後に分かった事だが、これはロシア圏から出ている 英語論文や著書の多くに当てはまり、政府報告書のような公的文書でさえ例外ではない)。それでも私見を入れず、内容の正確さを検証すると言うわけでもなく、ただ、論文の意味が通るように忠実に英訳し、和訳での完訳を行なった。それが翻訳係としての、その時点での使命だったからである。しかし、バンダジェ フスキー氏の文体に慣れれば慣れるほど、論点に客観性が欠けており、ただ自分の論点を述べているだけと言う文調が多いのにも気づいた。それが、ロシア語か ら英語に翻訳された時に失われたものなのか、最初からそうだったのかは、私には分からない。しかし、連絡係として氏とかなりのやり取りをしていたので、も しかしたら氏の人柄が文体に投影されているのかもしれないと、強く感じるようになった。
医学を勉強していない人の医学翻訳は、内容に奇妙な場合がある。当時日本で唯一出版されていたバンダジェフスキー氏の著書「放射性セシウムが人体に与える医 学的生物学的影響」も、例外ではない。2011年6月頃、自費出版の小冊子を入手して読んだ時には、米国で医学を学んだせいで日本語の医学用語や医学的言 い回しに慣れていないために、書いてあるまま、そのまま受け止めて読んだ。それから半年後に英訳版に目を通した時、英語の読みにくさに驚いた。おそらく英 語があまり上手でない人による直訳なので、言い回しが適切でない箇所が多く見受けられた。医学用語は特殊な場合があり、一文字、二文字間違えると、反対の 意味になったりする。医学知識のない人物の和訳は、それが直接的に生命に関するが故に、読者にとって非常に深刻なリスクとなる。
ロシア語から英語訳された「放射性セシウムと心臓:第4章」の改訂版英訳とその和訳をした6ヶ月程後に、米国医師団体である社会的責任を果たす医師団 (Physicians for Social Responsibility、略してPSR)のシニア・サイエンティストから、「放射性セシウムと心臓:第4章」を含む全体を英訳したので検証してほし いと頼まれた。彼は医師ではないため、医学的な部分が正しく訳せているかどうか分からないためだった。そもそものロシア語からの英訳版が読みにくいため、 米国とカナダの医師達に放射性セシウムについて学んでもらうために、彼は独自で改訂英語版を作ったのだ。
この検証を行なった時、既にかなりのロシア圏の英訳文献に目を通していたのと、放射性物質や被ばくについての文献も多く読んでいたため、「放射性セシウムと 心臓:第4章」を訳した時よりも深い知識ベースで検証することができた。読み込むにつれ、何度も違和感が出てつまづいた。聞いた事がない言い回しや分類。 何が言いたいのか不明な用語。放射能や被ばくの知識に乏しい医師が読んでも読める様にと、かなり変更したが、私の他に検証をする事になっていたカナダの心 臓専門医がどうとらえるか興味があった。すると彼も、同じ箇所に疑問を抱き、「この内容で科学的に捉えろと言うのには無理がある。」と述べた。他に非公式 で読んでもらった医師は、「セシウムが臓器に蓄積するのは分かるけれど、病理生理学的な部分は信じていいのか分からない。」と言った。また、「面白い仮説 だと思います。」としか言えない医師もいた。要するに、万人共通に、「科学的」研究として受け入れられないという事である。
先日、自分の手元にある「放射性セシウムと心臓:第4章」の改訂版英訳とその和訳を公開した。内容に疑問が残りながらも、既にバンダジェフスキー氏のセシウムについての研究は一般に出回っているため、貴重な文献を非公開のままにしておくのに忍びなかったからである。
http://fukushimavoice.blogspot.com/2013/02/test.html
すると、仙台赤十字病院呼吸器内科 東北大学臨床教授の岡山博医師から連絡を頂いた。バンダジェフスキー氏の講演会にも行かれた岡山医師は、講演で示された 病理組織や原著論文に掲載されている病理標本が、アーチファクトの可能性が強いと気がつかれたそうだ。「標本をパラフィン包埋する際に不十分な技術的エ ラーによって生じたアーチファクトが、心筋障害として提示されている。パラフィンが組織の中まで十分浸透していないために、5〜10ミクロンの厚さの切片 にする時に心筋組織がちぎれてしまった可能性が高い。腎臓の標本も同じく、切片に切る時に糸球体の入り口の血管と繋がっている部分に引っ張られて抜けてし まったのではないか。糸球体萎縮であれば糸球体は小さく硬くなるが、氏の標本ではなくなっている。」と言う事だった。岡山医師は病理が専門でないので、病 理の医師に尋ねたところ、おそらくそうだと言われたそうだ。岡山医師の見解は、バンダジェフスキー氏の研究は社会的に強い影響を持つものだが、批判がある と言う事も述べた方がいいだろう、と言う事であった。
ここで、ひとつ疑問が起こる。
木下黄太氏は、このような、バンダジェフスキー氏の病理標本や、研究内容の整合性などに対する疑問を考慮して納得した上で、バンダジェフスキー氏を流布した のであろうか?データの整合性のなさなどを指摘する声は、招聘前からあったように記憶する。そして、木下氏の返答は,時代的背景やバンダジェフスキー氏の 特殊な立場に言及していたように思う。
確かに、バンダジェフスキー氏の研究は、他に類を見ない貴重なものであると思うし、投獄された上に国外追放されたという事実からしても、大変な経験をされた と思う。原発事故後にセシウムと言う言葉をほぼ初めて耳にし、筋肉に分布されるらしいと言う事位しか把握していなかった私にとって、チェルノブイリで被ば くした人達において、放射性セシウムが臓器に蓄積されていたと言うのは、画期的な情報であり、内部被ばくと言う事を理解し始めるきっかけだった。
医師でも研究者でもない木下氏が、バンダジェフスキー氏の研究をきちんと精査した上で大衆に提示する事は不可能だったであろうと思う。医学というのは、ただ 本を読んで数字を理解すればいいだけのものではない。ただ情報をたくさん持っているからと言って、関与していいものではない。木下氏は、「信頼出来る人 物」などから放射能被ばくの情報を良く得ているようだった。しかし、何故その「情報源」の情報が異様に豊富なのかと言う違和感もあった。
私は、バンダジェフスキー氏の研究文献を翻訳したからと言って、氏の自論を盲目的に信じるわけでもない。むしろ翻訳したが故に、色々な事が深い部分で理解で き、ある種の限界が見えたり、新たな疑問点が起こったりする。例えば、セシウム以外の核種は病理解剖時に体内で見つかったのか?複数の放射性核種が同時に 体内に入り込んだら、実際にどのような反応が起こるのだろうか?などと言う事である。
ロシア圏では、チェルノブイリ事故後すぐに、医療登録システムが作られ、被ばくした人々が様々な検査を受け、そのデータが研究に使われた。しかし、この膨大な知見も、言葉の壁のためにロシア語圏外に伝わりにくい部分がある。
もちろん、チェルノブイリ事故の影響を知識ベースとして認識するのは不可欠だ。原子炉の状態と日本の人口密度からすると、チェルノブイリよりマシで済むとは 思い難い。また、過去の大気圏内核実験だけでなく、チェルノブイリ事故からのフォールアウトでも、幾分かの被ばくを日本全国で既にしているのだから、福島 原発事故による、さらなる被ばくの影響は、予想したよりも早い進行をもたらす可能性もある。
医学と言うのは、本来、政治的なものと離れているべきである。医師の役目は、患者のためにできる限りの事をすることである。残念ながら、今の日本、特に福島 県では、医学が本来あるべき場所になく、放射能被ばくをしていても、証明できないが故に否定される。ホール・ボディー・カウンターやバイオアッセイなどの 客観的データは存在するが、すべての人にアクセスが与えられるわけでもない。
福島第一原発から何度も放出された放射能プルームの拡散状況からすると、福島県だけではなく、北は宮城県や岩手県や北海道の一部、南西は東京を含む関東地方 や長野県などの方向にも、初期被ばくが及んだ。また、放射性物質は、食品や物流によって全国に拡散されている。そして、震災瓦礫の焼却が始まるずっと前か ら、事故後間もなくから汚染された一般ゴミが焼却されているのだから、既に焼却による放射性物質の拡散も始まっていた。避難移住した人達が、汚染された車 両や生活用品ごと移動することにより、更に汚染が広がった。
医師の役目は、体調が悪い人がいたら、被ばくという最悪の事態を想定して、綿密に対処する事ではないのか。しかし、実際に甲状腺障害を持っている子供がいて も、放射能との関連性を尋ねると一笑に付し、まるで体調が悪いのがその子のせいであるかのように振る舞う医師もいると聞く。「この位の線量では健康被害が 出る筈はない。」と思い込んでいるからのようである。
内部被ばくのメカニズムを正しく理解し、「外部被ばく線量」だけでは体内への影響を全て理解できないと言う事を医師が認識するのは不可欠である。そういう意 味でも、バンダジェフスキーの論文は、セシウムの色んな臓器での蓄積と諸生理学的システムへの影響の可能性の仮説として、全ての医師に読まれるべきである と思う。そしてその知見に基づいて、実際に放射性セシウムやその他の放射性物質がどのような影響を体内で及ぼすのかと言う研究が進められなければいけないと思う。
Yuri Hiranuma, D.O.